「教え、教えられ」が巡る―『隣のごちそう』と私のカレーの話
Spark Lab(スパークラボ)の稲場泰子です。
3月になりました。
関東では少しずつ春の気配がしてきました(花粉の気配も・・・・。)
先日伊豆の河津というところで、満開の素晴らしい河津桜の並木を見てきました。
川の両岸にびっしりと植えられた河津桜の濃いピンクが常緑の山々に映えて
素晴らしい景色でした。
本格的にソメイヨシノが咲く季節が待ち遠しいですね。
さて、本日は最近読んだ
「月とコーヒー」(吉田篤弘)
という、人と人の触れ合いを優しい筆致で書いている
素敵な短編小説集について書きたいと思います。
この中に収録されている
「隣のごちそう」
が私の心にずっと残っています…(ネタバレあり)。
「隣のごちそう」
「隣のごちそう」の主人公「マキ」は1月前に仕事をやめて、
次の仕事を探すまで「自由の身」を味わっている女性です。
彼女は、古いけれど、大家さんの管理と掃除が行き届いている
「こざっぱりした」アパートに住んでいます。
仕事を探さねば、と、かすかな焦りを抱えながらも、
「マキ」は漫然と過ごしています。
彼女は食事に無頓着で、おなかがすくとコンビニでおにぎりやパンを買って
何となく食べる生活を送っています。
そこに、長らく空いていた隣の部屋に住人がやってきます。
ただ、新しい住人は朝早く出かけて日中は不在にしてて、
なかなか会う機会もなく、どのような人なのかわかりません。
ただ、夜帰宅すると、その住人はテンポよく料理を始めるのです。
古いアパートの壁は薄く、窓も隙間があるため、
隣の住人が料理を作る音とにおいが漏れてきます。
ある日、その音と匂いに集中すると、どうやら「卵焼き」を作っているらしい。
その瞬間、「マキ」は「卵焼きをつくりたい」と無性に思うのです。
翌朝、街に調理器具と調味料を買いに行き、卵焼きを作り、
敷きっぱなしだった布団をたたんでちゃぶ台を出し、
ちゃんとお皿に卵焼きを載せて、嬉しく眺めてからゆっくり味わいます。
それはとてもおいしいごちそうに感じました。
翌日以降、「マキ」は隣の人の料理が何か、を壁越しに推定し、
同じものを翌日作ることを始めます。
10日間続けた後、隣の住人はいつもより遅い時間に帰宅し、
外で食事を済ませたのか、料理をしません。
困った「マキ」はレシピを徹夜で眺め、自分が何を食べたいのか考えつくした挙句、
「カレーが食べたい」ことに気づきます。
翌日、買い物に出かけて食材をそろえ、の夕食にカレーを作り始めます。
隣の住人も料理をし始めた気配があったので、何を作っているのか探ろうとしますが、
自分が作っているカレーのにおいが強く、隣の料理の内容がわかりません。
そして翌日の夜、隣の住人が料理を始めました。
作っているのはカレーでした。
「人は学び合って幸せになる」
誰かから何かを教わったり、誰かをモデルに成長したりした経験は誰にでもありますよね。
そのような、「師」と言える存在から、私たちは一方的に何かをもらっている気がするものです。
「マキ」にとって隣の住人は一種の「師」だったと言えます。
隣の住人の真似をして料理を始めたことで、
「マキ」は生活が整い、夢中で何かをすることの充実感を味わい、
明らかに良いほうに変わっていきます。
そして、ある時、「自分は何を食べたいか」という自身の「Want」に行きつきます。
料理について、初めて自分で下した決断です。
これは「マキ」の大きな成長です。
言ってみれば、「真似てやる」から「自分で考えてやる」という、
「主体的」な状態にシフトした状態です。
そして、面白いことに、
初めて「主体的」に作ったカレーが、今度は「師」である隣人に影響を与え、
今度は「師」が真似してカレーを作ったのです。
私もたくさんの方にトレーニングワークショップを実施しています。
立場上「教える」立場ですが、ワークショップの中で参加者の方の経験や考え方を伺うことで、
自分のエネルギーを上がったり、成長出来たりしていることを実感します。
年齢を重ねると、自分がメンタリングしていた相手が
自分の「師」になってくれるような場面も増えました。
つくづく人間は「教え、教えられる」関係を巡らせることで成長させてもらえるのだな、と感じます。
「生徒」の立場の皆さん、「師」にいい影響を与えていますか?
「師」の立場の皆さん、「生徒」から学べていますか?
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